
2024年9月19日に、品種ナビゲーターの竹下大学氏が執筆した『日本の果物はすごい-戦国から現代、世を動かした魅惑の味わい』という本が発売されました。
「日本の果物はすごい!」、これはフルフム編集部も声を大にして言いたいことです。竹下氏は、野菜と果物のルーツを社会の変遷と共に理解できるビジュアル年表が特徴的な『野菜と果物 すごい品種図鑑』の著者としても知られています。数十年にわたり育種家として農作物に携わってきた経験を持つ竹下氏に、新刊について話を伺いました。

伝えたいのは果物の「背景にある物語」
僕が『日本の果物はすごい』を書こうと思ったのは、もっと多くの人に農作物に興味を持ってもらいたい、という想いからです。もともと僕は農作物の品種改良を行うブリーダーだったのですが、僕たちが開発した品種や、僕たちの仕事に対して、世間からはあまり関心を持たれませんでした。ちょっと知るだけで毎日がもっと楽しくなるのに。これが残念で……。
そこで農作物に興味を持ってもらうために、僕は、「食材の背景にある物語」を提供する活動を始めています。料理というのは、あるレベルまで美味しくなってしまうと、味だけではなく、食材の情報や、食器や店舗デザイン、さらにお店のサービスなどが重要になってきます。なぜなら、その料理を食べて舌で味わうのと同時に、頭の中で色々なことを想像しなから美味しさを感じているからです。最も分かりやすい例としては、「おいしい」よりも「珍しい」の方が強く印象に残ったりするじゃないですか。料理に希少価値があればあるほど、味が少し物足りなくても、「美味しい」「ありがたい」と感じることがありますよね。これってとても素敵な体験だと思うんです。だからこそ僕は「食材である農作物ひとつひとつの背景にある物語」を提供したいのです。
今回果物に絞った理由は、品種名で流通しやすく、農作物の中でも世の中の関心が比較的高いからです。まず果物で、 それから他の農作物、さらには肉の世界にも広げていけないかと考えています。書籍のサブタイトルは「戦国から現代、世を動かした魅惑の味わい」としたのですが、「世を動かす」というキーワードを元に、徳川家康を筆頭に果物に動かされた人や果物が引き起こした出来事など、様々なエピソードを集めました。果物好きだけじゃなく、歴史好きの人にも楽しめる内容になっています。
新宿御苑と明治貴族から始まるメロン栽培の物語
明治・大正時代の日本を牽引した大政治家であり、早稲田大学の創立者でもある大隈重信は、意外にもメロンと深い関わりがありました。
明治時代は、維新後の国家発展のため、欧米に追いつくべく様々な分野に力を注ぎました。その一つが農業でした。その結果、欧米から大量の品種が導入され、同時に栽培技術も向上していきました。しかし、ある程度の発展を遂げた後、政府の関心は次第に工業へと移り、農業への投資が減ってしまった時期があったのです。
この農業の空白期に尽力したのが福羽逸人(ふくばはやと)です。彼が活躍できたのは、新宿御苑に勤務していたからでした。新宿御苑は元々農業試験場として使用されていましたが、後に宮内省の管轄となりました。皇室用の野菜栽培や皇族の遊興のための庭園として利用されるようになったのです。しかし福羽逸人は、欧州駐在経験も活かしながら、日本の農業発展のための研究開発を独自に続けました。その過程でイチゴやメロンの栽培試験や品種改良も始めたのです。
予算不足に悩まされた福羽逸人が、国としての園芸振興を訴えた相手が大隈重信でした。自邸に大規模な温室な温室を持っていた大隈重信は、そこで国賓から贈られたヤシや洋蘭を育て、外国の賓客をもてなすお茶会などを催していました。福羽逸人の訴えに応えた大隈は、洋蘭の切り花を宮内省に提供したり、マスクメロンの栽培まで始めました。こうしてマスクメロンは、農家ではなく貴族が競うことで栽培技術が向上していったのです。大隈邸の大温室は、早稲田大学に隣接する大隈庭園内にあったのですが、なんとメロンの品評会まで開催されました。もちろん日本初です。

徳川家康と家康に贈られたみかんの木の物語
駿府城跡に行ったことがありますか? 静岡駅の近くにある徳川家康が最後に住んでいたお城なのですけれども、そこに徳川家康が自ら植えたみかんの木がいまも生きて育っているんです。これは和歌山の紀州徳川家から来たものです。徳川家康が将軍の座を秀忠に譲り、隠居した時の贈り物のひとつだったのかもしれません。
紀州藩の初代藩主徳川頼宣は徳川家康の10男です。平地が少ない紀州藩は米があまりとれず、とても貧しい藩でした。藩の発展のために新たな産業を起こさなければならない状況下で、徳川頼宣に最も期待されたのがみかんだったのです。急な斜面でも栽培できるみかんを特産品として普及させ、人口の多い大阪や江戸に持っていけば儲かるに違いないと頼宣は考えました。こうして紀州藩は豊かになったのです。江戸末期には、大量の紀州みかんが船で江戸に運ばれていました。その量は、100万人を超えていた江戸の住民が、毎日ひとり1個食べていた量に相当するほどです。

庶民の心をつかんだ柿ならではの物語
江戸時代、柿は庶民にとって最も身近な果物でした。なぜ、その時代の人たちにとって柿がそれほど大切な存在だったのか、ちょっと考えてみましょう。
その理由は、庶民が食べられる甘いものがわずかだったからです。砂糖が大量生産されるようになったのは江戸時代末期頃からで、それでも砂糖は高価な薬と同等の貴重な品でした。お金持ちしか手に入れられない時代だったので、庶民はいつも糖分を求めていたのです。そのため、甘い果物はとても重宝されました。さらに、江戸時代の果物はいまよりもずっと糖度は低かったですし、種類も多くはありませんでした。例えば、イチゴもメロンもサクランボも存在しませんでした。日本人が大きくておいしいモモやリンゴを食べられるようになったのは明治以降の話です。ブドウでさえ栽培方法がよくわからなかったため、大量生産はできていませんでした。
柿は日本全国で栽培でき、放っておいてもたくさん実がなり、干し柿にすれば保存がききます。干し柿の糖度は約60度にもなります。これは練り羊羹と同程度。長期保存できて糖分のとても多い干し柿は、当時としては非常に貴重でした。
さらに重要なのは、柿が日常生活でとても役立つ植物だったことです。まだ青い未熟な果実からつくる柿渋には、防腐効果、防水効果、防虫効果があり、建材や繊維、傘などの生活用品に使われていました。このように多目的に利用できたため、一家に一本の柿の木が植えられるようになったわけです。
柿が庶民にとって特別な存在であったこと、他の果物にはできない役目を果たしていたことを知って、柿に対してどんな気持ちが湧いてきましたか?

先入観を捨て果物の新たな魅力を発見する
このように、歴史と果物を結びつけて考えると果物を見る目が変わり、食材だけでなく食生活すべてに対して興味が増していきます。これって小さな幸せが毎日増える喜びに通じると僕は思うんです。いつも見てる果物が、ある情報を知った途端に別のものに見えてしまう、というくらいの変化を次々起こしていきたいですね。この変化を一度経験してしまえば、もう元には戻れません。例えば、初対面の人と会う時、私たちはどうしても先入観を持ってしまいます。でも、何かをきっかけにそれを超えた瞬間に、急にその人がとても魅力的に映ることってありますよね。同じように、多くの人は本当の意味で、果物とまだ「出会っていない」のではないでしょうか。おそらく味だけで評価するという先入観に囚われてしまっていて、その果物の背景にある物語が見えていないのです。
『日本の果物はすごい-戦国から現代、世を動かした魅惑の味わい』を読んでいただき、果物それぞれが背景に持つ物語を知ることで、味と栄養を求めていた時よりも果物がおいしく感じられるという体験を、ぜひ味わっていただきたいです。

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日本の歴史と経済を語るのに果物は欠かせない。柿は平安時代から生活用品として活躍した。徳川家康は関ヶ原の戦い直前になぜ柿と桃に願をかけたのか。ペリー来航の際、アメリカと対等に渡り合おうと日本が振る舞った料理に添えられた品種は何か。太平洋戦争中、軍需物資として密かに大量生産されたのはどんなブドウだったか。日本発展の知られざる裏側を「果物×歴史」で多種多様に読み解く、「もうひとつの日本史」。